痛いなー、でもそうなんだよね。


元のエントリーも読ませてもらったけど、次なるべんとーさんの展開が私の心のアンテナにピントきた感じ。好きなことをするということ のエントリーにひどく共鳴しました。
 今の世の中では、流していくしかないと言う確固たる諦めを持つ自分と、社会でのキャリアー(仕事)が、どうしても上手くいかない。一時は凄く悩んだテーマだけど、悩んでもどうしようもないこととして、どこかで括ってしまった気がする。

宗教めいた話でもあるんだが、人がこの世界の人やものに自然に注げる愛情として、自分の性向にあったことをし続けなさいということだった。

これが見つかるととってもラッキーな人生だと思う。私は未だに見つけられていないと思っているし、暗中模索の状態だけど、「これは違う」という匂いだけは感じる。今の社会は、選べる選択肢が沢山あって、その中から好きなことをつまめるけど、私のような人間は、自分にしか出来ない事で世の中の役に立てるような事は何か?と探しているのかもしれない。一人一人のその性向を寄せ集めて、より良い社会が成り立っていたら、きっとこれこそが私が目指すものかもしれないと思っている。 
 やりたい事をやる自分の満足は、満たされると空虚な物で、何をやっても自分の力量の限界を見ることが出来る。そこから更に進む時、気持ちがそぐわない事でも続けていこうというエネルギーは、自分の周りの人からもらっている事も多い。ベタな感情的なものでなく、あくまでも自分が感じる「感」の事で、その感性かな。人に求めず、人から褒められもせず、それでいて人に必要な事を提供する一方通行な自分。
 こんな風に言ったらその仕事って何でもいいじゃん!です。ただ、そこに少しだけ潜むのが、「自分がしたいこと」「自分に出来る事」かしら。私はこの歳で、肉体労働は出来ないしです。37歳で私は夫の仕事を辞め、母業に専念すると宣言してから一切生産的な仕事には関わっていない。でも、夫が働いて家族を養うことに貧しても、私は自分を曲げなかった。その事で思うのが、人は何とかしていく力があるということ。ただね、最近これを一般的なこととして言えなくなってきているのと、言っている事が分からない世代も多いと思うよ。

I want what you want when you want it.かな。

誰が子どもに対して真剣か

2007・12・3のgodmotherの料理レシピ日記から
 いきなりですけど、今までに経験した例から。
 夏のバスケットの練習を終えた子どもが帰宅して、水を沢山飲む姿を見た親が、「あんなに喉が渇くほどの練習をして少し練習が異常じゃないですか。」と言ってきた事がある。何に驚くかというと、その異常と表現するような水の量がどれくらいの量が基準でそうなのかの提示もしないでいきなり「苦情、抗議の姿勢」だ。膝が痛くてもその子の我慢の範囲で練習を続けていた子がいて、その子を見ていた周囲の子が自分の親にその話をしたら、本人の親が聞いて、「どうしてうちの子を休ませないんですか。何かあったら誰が責任を取るんですか」と。このような事は、日常茶飯事の事です。この2例が、何の例としてあげているか分からない親の為に補足します。
 1)自分の経験や常識観念から、正しいという尺度を持ち、それにそぐわない事柄は全て悪とする尺度で物事をはかり、その正義感を楯に他人に責任転嫁する。
 2)自分の子どもの状態を自分で確認するでもなく、他人が感じて言っている事を鵜呑みにし(事実だと決めつけ)徒党を組むように抗議する姿勢。親の身勝手さの例です。
 一番困るのは子どもなんですけどね。
 さて、これらの親からの苦情をどう処理するかです。一般的なことで話すと、①親が煩いし、問題が大きくなると自分のキャリヤーを傷つけるため、親の言うとおりに対処する。②親と争いになるのは避けたいので一応謝る。でも、頭にきたから該当する子どもに親の悪口を言う。また、他の指導仲間と一杯飲んでひたすら愚痴る。③どうしたらいいか分からないので悩み、そのうち重荷になって部活の指導を辞める。
 これくらいが最悪のパターン、且つ最近の学校現場でよくあることです。誰も子どもにとってを考えていない、自分の都合だらけです。指導者と親の狭間でどちらにも気を使い、一番寂しい思いをしているのは子どもなんです。愛情を注がれていないということを敏感に感じ、自分の居場所を失っているのは子どもです。
 このような中で、表面を繕って一見元気に学校へ行っているような子どもでも、中学辺りまでは自分を爆発させる勇気や力がないので我慢している子が多いです。中3にもなると、急に学校へ行かれなくなったり、保健室への登校が始まったりする子もいます。学校へ行かれなくなって、しかもエネルギーのある子は、非行仲間と良からぬ事へと走ります。
 子ども達は皆、寂しくて仕方なく、自分の居場所を探し出した結果このようなことが表面化する場合が多いです。これが部活というシーンだけでなく、いたるところで起こっていることです。
 子どもが必要としている時に親は本当に寄り添っているだろうか。必要としていない時に世話をやき過ぎて、過保護、過干渉になってはいないだろうか。日常、さじ加減ができるくらいの関わりを子どもと持っているだろうか。何処をどう切っても金太郎飴じゃ始まらない。私からと、思わん人から自分の立場で断ち切ることでしょう。心は金太郎飴でいたいです。

続きはいつかまた・・

何なの?

悲しいかな、「ちょっと原則的ではなけど」についてここで語ったらあの場所で“このエントリーを含む記事”に、ここが自動的に載って、それにブックマークが付いていたので手繰ってみたら、自分のとこと思しき青年が、コメントしている・・・現象。公表しているエントリーの現物がここにあるにもかかわらず、あそこでコメントするという。私の目に触れなくてもよしとするのでしょうけど。なるほど、こういうことか。遠いんだね。

何となくだけどね

ちょっと原則的ではないけど☛で、べんとーさんが誤解のないように記事をエントリーしている。これと妙にリンクするのが諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』/その1:タイトルと内容および'80年代の先駆けと「オレ様」の「お子ちゃま」化なんだけど☛の記事(これは私の感じるあたり)。元々、誤解があるのかもと判断したべんとーさんが再度言及に至っているけど、やり取り(ぶくまを含む)を見ていて、認めたくない若者の姿「やり込められないぞ」みたいなのを感じる。傍観していてこれがけっこう醜くく映るんだな。ただそれがたとえ間違っていようと、正しかろうと自己主張を誇示しようとするこの世代の象徴というか。このような彼の態度を周りがどう見るかもいろいろあると思う。べんとーさんの言わんとするあたりを理解できていないと、彼の側についてイケイケになるような空気や、わかっている人は、無言というか・・だろ?どうせ。

 彼については、よくぞコメント欄にお出ましくださったな。ここで、べんとーさんのレスに対してどういうスタンスを取るかで、あなたのこれからが大きく変わると思います。別の論調を引っ張り出すか、「そういう考え方も有るね」と頷かせるかはさて置き。どう見ても、べんとーさんの方に今回は軍配が上がるんだけどね。

 何故このような結論になるかというと、始めから切り込むような姿勢をこの青年から感じる。文章にはそんな風には表れている風でもない。べんとー氏の再度のエントリーで大方納得いくのではないか?いかない?だから心に違う物が流れているように見て取れるんだよね。それは、自分にとって凄く損なことをしているよ。あなたが自分をいずれかの形で社会で認知してもらいたいなら、人の話を受け入れる自分と人に物を言いたい自分を切り離し、まず、人の話を聴けるようにならないとまともな人からは何も言ってもらえないと思うよ。べんとーさんのような人はそういないよ。
 「私についてあったら言ってください」と言うのを公言する人がよくいるけど、これ聞こえはいいけど、いざ何かを言うと聴けない人が多い。え〜かっこし〜だろ?

日本はどうなるの

自己実現とは、人生を上手く遊ぶ。そうすることによって、結果的には自己の実現なんだという捕らえ方。老人になるのが楽しみになるような世の中が望ましい。”

とは、よく言ったもの。然りという反面、そうならない、なれない問題をどう解決するかというのは個人の問題なんだけどね。

なんだろ?そんなにサラリと受け止められないな。

団塊世代が第二の人生の別天地をアジア諸国に求め、財産丸ごとつぎ込んだ挙句、期待通りにならなかった実例を元に、NHKで展開している対談に耳を止める。

悲しいけど、悪徳業者に対して免疫のないこの世代は、経験不足と結んでいる。

なんだよ!だけどそれで終わりかよ!

もっと深く考える所無いの?

このような問題って、何時までも何処までも個人の問題で締めくくるよね。

そうかな?

グローバルに見ていくと、最終的に老人世代の問題としては、病んだ日本を象徴しているよね。

これって、氷山の一角で、今の30年代世代が何時か背負う近い将来の大きな問題でしょ。

どうでもいいことだけど

Twitterをやめました。
こんなことどうでもいい事なんだけど、自分の考えは残しておこうと思うので。

 何かが見つかるかも。という思いで始めて、やっと最近いろいろ吹っ切れ始めてきていた。このコミュサイトには、メンバーがTwitterで発言したことを他のメンバーが「お気に入り」する機能がある。ここで、それらを一箇所に集約させたサイトをメンバーの誰かが作った。これを「ふぉぼったー」と称している。これができて、私のテンションはサーッと下がってしまった。ある種の危惧を覚えた。

 より多くの人からお気に入り登録されると、それがランク付けされ、アイドル扱いのようにもなる。どこのサイトでもあるような、アレだ。この何に違和感があるかというと、お気に入り登録する側の登録する観点は、人それぞれ。「お気に入り」という場所に登録こそすれど、私の場合なら、人から聞いた情報や後に忘れない為にここにちょっと置いておく。その程度のもの。それらを集めて集計した所で、いわゆるランク付けといっても、なんのランク?と、疑問が残る。

 余談だが、前の私のブログはあの大所帯のYahooで、「人気ブログ」一桁代まで上がった事があるが、上位のブロガーは一種の有名人扱いとなり、ブログのエントリーの質よりも人気ブロガーを登録する快感や自分のブログの人気を上げるためのエントリー(釣り)だったりと、もろにわかる質だった。また、私は、醜い足の引っ張り合いの真ん中に巻き込まれた次第。とかく人気者に祭り上げられたブロガーがそう成りがち。

 この、ふぁぼったーを作った側の意図とは一体何か?それすらも知らないが、知る必要もない。それらの事を面白おかしくする気もない。あまりにも下らない発想。ま、これが好きな人はどうぞ。ですが、共通意見や共感できる者同士のコミュかもしれない。これは、先日finalventid:finalvent:20071127が啓発していたこととなんら変わらないと感じ、方向性もそうなるだろうと予感する。そう思えば思うほど私自身が下らなくなってきた。発言する気も失せ、興味もなくなった。

 あっという間にこのように変貌していく速さに驚く。そういう集まりは、とかく速度が速い。自分の力ではどうにもならない事だが、せめて私がやめる事は、twitter人口を1人減らすことですね。

 以上がTwitterをやめた経緯と結論。

こんなこと残してもなぁーと、書いても空しくボーとしていたら。あら、べんとーさんもブログでつぶやいている。
これ見てー!的テンションじゃないけど、とりあえずね。